「劇場版 仮面ライダードライブ サプライズ・フューチャー」

春の「大戦」映画を、ミッチーに騙されて観に行ってしまったら、事前の期待値の低さの更に下を行くゴミだったので、「単独映画は頑張ってくれよ……」と思っていたのですが、結局こちらもそれなりにひどい映画でした。残念。

とにかく、「未来」を便利に使いすぎ。「ディケイド」以来、「パラレルワールド」という反則技に対する免疫が下がりすぎているせいか知らんけど、それで何でもかんでも説明できると思いすぎ

制作者側からしたら、終盤の展開は「視聴者をうまく騙してやった!」とガッツポーズなのかも知れないけど、その「サプライズ」によって生じる様々な破綻のカバーを全て放棄しているのが大問題。テレビシリーズにも通じるが、泊の「つながった!」で強引に解決するのやめてください

一番大きな問題は、息子が実在したという証拠が一切ないことだ。泊が「わかるんだ……」と言うだけ。なんじゃそりゃ。そもそも泊と息子は、実際には一度も会っていない。顔も知らず、声も知らない。「ロイミュードがコピーしているということは、元の人間がいるはずだから」というのを証拠にしているかも知れないが、あるロイミュードがコピーしていない人間を騙ることができるのは、テレビシリーズでブレンが証明している。

泊は息子の顔を知らないわけだから、「そいつ」が「息子です」と名乗れば、そうと思うしかない作りになっている。であれば、「どうやって信じるか?」「どうやって『違う』と分かるのか?」という部分にドラマが置かれるのかと思いきや、その辺は勝手に自分で解説してくれて、泊は便利な勘の良さで納得する。何が面白いの、それ?

で、最後の最後、亡き息子が力を貸してくれる展開があるけど、そいつと会ったことないので何も感動がない。なんてたって、主人公どころか観客も本人を知らないんですよ。その状態で感動的な音楽と共に幻影で現れても、何にも心動きません。

泊の「便利な勘の良さ」に頼らずに、息子の存在に説得力をもたせる方法は色々あったと思うけど、全て安易な方法しか取っていないことに絶望。ガジェットの使いどころはことごとく間違っている(魅力的に描けない)し、変身を多様しすぎて「ここ一番」での変身が活きないし、本当に面白く無い映画でした。

「仮面ライダードライブ」(終)

そりゃ確かに、ハートを始めとしたロイミュードたちの最期には胸は熱くなったし、ドラマとしても盛り上がったとは思います。

けども、その中心にいるべき主人公・泊進之介の特異性というか「彼だからこそ」の部分が、結局最終回まで説得力を持って描かれることはありませんでした。主人公の「魅力」を、周りの登場人物たちが「解説」してくれるのではなく、主人公の行動だけで観ている側に訴えかけるようなシーンが欲しかったです。

それはドラマ全体にも言えて、序盤〜中盤にかけての「刑事ドラマ(もどき)」が、イマイチ盛り上がりに欠けていたのは、どんな事件が起きても全て「泊の勘の良さ」(という名のご都合主義)で全てが解決してしまうから。ひどいときは視聴者に明らかにしていないことをヒントにしていたり、杜撰極まりなかったと、僕は思います。

キャラクター売りで最後はうまくまとめたと思いますけど、そういう「終わり良ければ全て良し」を言い訳にしないで、いい加減しっかりとドラマを作った「仮面ライダーを観たいと改めて思ったシリーズでした。まぁ、そういうニーズは相手にしていないのかも知れないけど。

「仮面ライダードライブ」

魔進チェイサーが、紆余曲折を経て仮面ライダーとして覚醒する回。

魔進チェイサーというキャラクターが登場したときから期待されていた展開がようやく訪れた! ということでものすごく期待していたのだけど、なんだかすごい雑だった。

ここ数回、ずーっとフラフラしてただけのチェイサーに、ようやく霧子(&進ノ介)とハートの間に立たされて葛藤の入り口に……と思ったらあっという間にチェイサーは蚊帳の外になり、なんとか介入してドライブを吹っ飛ばしてまさか! と思いきやハートがものすごく親切な洞察力を発揮してチェイサーに判断を委ねる。そしてまたフラフラするチェイサー。そしたら都合良くベルトが完成し、街中から河原まで無人走行してきたバイクに雑に括り付けられたベルトを見て、なぜか居場所を察知してナイスタイミングで登場、そして先ほどの葛藤から何も事件が起きてないのに決心し、変身……。

ご都合のオンパレードは置いておくとして、せめて「仮面ライダーになる心理的過程」は丁寧にして欲しかった。こんななし崩しじゃなくて。まぁ、それは「とりあえずやってから」これからじっくり描きますってことなんだろうけど、でもそれって「変身」じゃなくね?

結局、手段と目的が逆転してるというか、「人間を守る」という使命が先にあって仮面ライダーに、というのが理想なのだけど、今回の場合「取り敢えず仮面ライダーになってから使命を考える」という順番なので、盛り上がりようがない気がしたのです。「ドライブからハートを守る」という行動をしたなら、それに対するアンサー的行動がないと成立しないでしょ。あれの後に「人間を守るのが本能だ」と言葉だけで言われても説得力ゼロなんですけど。っていうか、あの行動自体の代償もないし。

せっかく、ギミック的にも魔進チェイサーの鎧が弾けて仮面ライダーチェイサーに、という仕掛けがあったっぽいのだけど、ドラマとしての変化が全くなかったので、ただの視覚的な仕掛け以上の意味になってなかった。本当に初回から期待してた展開だったので、思った以上にがっかりした回でした。

「Gのレコンギスタ」

この間終わった、フジテレビのドラマ「問題のあるレストラン」にノれなかった。構成されている要素が全て“記号”だったからだ。

主人公も、その仲間たちも、敵対する社長も、その下の社員も、みんな「ドラマ上の一要素」だけを与えられた記号でしかなかった。気の利いた台詞でごまかされてはいるけれど、「正しい」と「間違っている」との間にくっきりと線が引かれた世界だった。

「ドラマなんだからしょうがない」という言い方もできるけど、記号だらけなら説明書を読めばいいじゃないのと思ってしまう。重いテーマを扱っているから仕方のない部分があるのかも知れないけど、少なくとも僕は「テーマ」を観るためにドラマを観る訳ではない。その世界の中に生きる人間模様を観たいんだ。その結果、浮かび上がってくるのが「テーマ」なんじゃないか、と思っている。

Gのレコンギスタ」は、少なくとも僕にとってはそういうアニメだった。

記号を張り合わせた極めて“アニメ的”な作りをしていたドラマの「問題のあるレストラン」に対して、「Gのレコンギスタ」は全然アニメ的じゃなかった。「こいつを倒せば全て丸く収まる」というラスボスは居ないし、というかそもそも敵味方の相関図がぐちゃぐちゃだし、「正しい」と「間違っている」が人の数だけ溢れていた。

全体の構造もそうだし、演出にしたって、誰かが誰かを「好き」を表現するとき、顔を赤らめたり、じっと見つめたりしない。誰かを「嫌い」だからって、いちいち顔をしかめたりしない。誰かが言った事を、誰かが100%理解してくれたりしない。常に背中を押してくれるだけの便利な白馬の王子はいない。

分かりやすいことなんて何にもない、だけどみんながそれぞれ「何か」を信じている。それらの相克を「ドラマ」と呼ぶのだ。「Gのレコンギスタ」はひたすら愚直にそういう「ドラマ」を描いていた。

最後まで正しい何かや教訓めいた「テーマ」は明示されなかった。けど、眼下に広がる風景に飛び上がる主人公・ベルリの背中に高らかに歌われる「元気のGは始まりのG!」のフレーズに、なんだか、泣けてきた。世界はよく分からないし、他人の気持ちを考えるのは面倒だ、でもそれが人生だろ! とバーンと背中をぶっ叩かれたような気がして。

Gのレコンギスタ」、本当に面白かったです。

「超能力研究部の3人」

劇映画部分とフェイクドキュメンタリーが合わさった、ちょっとだけ凝った映画。でも、フェイク部分が完全にフェイクではないお陰で、劇映画部分が投げたボールをフェイク部分が受けたときに生まれる言葉や表情が、逆説的に異様なリアルさで迫って来る。お陰で、見終わってしばらくしてもあるシーンでの橋本奈々未さんの表情がなんだか心にこびりついている。あるシーンで生田絵梨花さんが吐露する心情を聞くと、「乃木坂って、どこ?」で地獄の卵焼き作ったり「誘惑」を熱唱したりしているのに……とあの番組の味わいが増しました。

で、そういう映画の構造とは別に、何が「虚」で何が「実」かなんてのは、結局誰にも分からず、当事者や観てる側が「信じる」ことでしか判断し得ないのだなぁ。そういう覚悟を引き受けて、尚も「アイドル」であろうとする3人の、「本当の」笑顔を引き出したラストカットは、今まで観た中で一番意味がある「カット!」演出でした。どうしようもなくアイドルを描いてしまっている、アイドル映画でありました。

「仮面ライダー×仮面ライダー ドライブ&鎧武 MOVIE大戦フルスロットル」

欲を言えば、「ドライブ」の復活シークエンスはもうちょっと理屈をついていれば(テレビを叩いて直す的な復活)、もっと燃えたと思うけど、それでも「鎧武」はそれぞれのキャラの決着として、「ドライブ」は主人公と2人の“相棒”との関係の再確認として、なかなか面白かったです。

ただ、ひとつ気になった……というか、最近のライダー映画に多いんですが、爆発とか衝突音とかと同時にセリフが乗るとき、敢えてなのかバランスを取らずに音もセリフも同じでかいレベルで鳴るのでセリフが聞き取れないんですよね。特に今回は、ドライブが再起を宣言する割と大事なセリフも、格闘と効果音の中に埋もれてしまってた。

敢えてなのかなぁ? それとも僕が観た劇場設備のせい? そこが毎回ちょっとだけ醒めるポイントです。

「となりのシムラ」

情報を知ったときから結構期待していたけれど、実際に出来上がったものは期待通り、面白くて少し寂しい良いコント番組でした。

特に捻ったものがあったわけではないけど、そのことが「例え有り触れたものでも、『志村けん』がやれば唯一のものになる」という志村師匠への最大限のリスペクトを感じさせて、好感度もとても高かったです。実際、選んでいるネタ自体も今まで志村師匠がデフォルメしてきたものの大元の概念を形にしたようなおじさん達の姿で、本当に『志村けん』で育った人たちが作ったんだなという感じがしたし。

作家陣に志村師匠も入っていたし、本人の意向も大分入っているとは思いますが、それでも「他人に演出される志村けん」というのはとても新鮮でした。願わくば、今度はもっと自分の手を離れたところで、「完全に遊ばれる志村けん」というのも観てみたいなと思っています。志村けんが手がけない変なおじさん、志村けんが手がけないひとみばあさん……人と人との繋がりの中で生まれる新たなネオ志村。夢が広がります(謎の締め)。