「仮面ライダー鎧武」(終)

もう新シリーズ「ドライブ」も10話になろうという頃なので、簡単に。

やはり、僕にとっては最初から最後まで乗り切れないシリーズでした。致命的だったのは、脚本と演出が最後まで噛み合なかったこと(どちらかが優れているのに、という意味ではない)。

例えば、主人公たちが日頃何で生計を立てているのか、とか、この人たちの職業なんなんだよとか、そういう設定面の詰めが甘いから、主人公たちの境遇が説得力を持たない。どいつもこいつも裕福そうだし、綺麗な服着てるし、底辺の人たち感はずっとない。そんで背景もテキトーだ。そんなダサイ張り紙でどうしてこんなに人が集まるんだ? このダサイ踊りのどこに憧れるんだ? このしょーもない人たちのどこに人生を観るんだ? つーか何が好きでやってるんだ? という部分が、言葉ばかりで「画」や「芝居」として成立してなかった。

これは偏に、「おなじみの場所でのおなじみのロケ」や、「特撮お馴染みの演出」が、もう通用しなくなって来てる証左だと思うのだが、「アキバレンジャー」とかの扱いを見るに、多分是正されることはないだろう。ただ、残念。

そういったベースの部分がデタラメな上に、展開されるのはずっと過去のシリーズの焼き直しばかりなのにも辟易した。その内ゲバ、何回見せられたと思ってるんだ? そもそも「鎧武」はずっと内ゲバで「外」=「世界」へのベクトルが全くと言っていいほどなかった。最終回の主人公たちの新天地としての意味しかない。正直、今のご時世にそんな閉鎖的な話かよ……という。

その終盤の展開も、なぁ……。別に「先が読める」=「面白くない」とは全く思わないけれど、それでももう「超人的な何者かの犠牲によって救われる世界」という了見の狭さが、先述した閉鎖的な世界観と相まって絶望的に面白くなかった。超人化した姿がヅラ丸出しでカッコ悪いし。だったら、「クウガ」のような後味の方がずっと世界に希望が持てる。演出面では序盤から表出していた「リアリティを持たせる努力の放棄」が、終盤には脚本にも現れて来た印象。

ハリウッド製のヒーローが、あの手この手で新たな「ヒーロー」を創造している中(全てが成功してるとは言わないけど)、国産ヒーローの雄はまだこんなところでチマチマやるのか……と、ちょっと絶望感が強かったシリーズでした。

良い年していつまでも特撮なんか見てる大人なんか対象外なのかも知れないけど、それでも好事家としては、何らかの革命が起こって欲しいと、毎年どこかで思ってしまうのです。それは「バイクが車になりました」なんて瑣末なことではなく、ね(ドライブは今のところそれなりに面白いですけど)。

「ヌイグルマーZ」

映画としては、正直あんまり褒められた出来じゃないと思う。仕込みに仕込みまくった小ネタの数々と、王道なストーリー展開の食い合わせが微妙に悪くて、なんかずっと「笑いの保険」を掛けられ続けているような気まずい気分になる。じじ・ぶぅの使い方とかさ。説明台詞を大げさに言うネタにしても、肝心要の部分でもそれやっちゃうと、結局(観てる方を)バカにしてんのかな? って印象を受けてしまう。そんな意図がないことは分かってはいますけど。

でも、それでも、この映画で僕はボロ泣きしてしまった。

それは、全てしょこたんこと中川翔子さんのせい。

特に、予告編でも使われているヌンチャクシーン。特撮ヒーローを愛し、その心を救われてきたひとりの少女が、かつて夢見たヒーロー達のようにヌンチャクぶん回し、敵をなぎ倒していく。走り方は不細工だし、脚は上がってないし、身のこなしはぎこちない。でも、それでも、ポーズを決めて次の敵へ向かってく姿。それは、「私は、あなたたちのお陰で強くなれました!」という全力のヒーロー達への恩返し

あの瞬間の、「中川翔子」としてのノンフィクション。

そりゃ号泣だよ!

それだけに、映画として全体を観たとき、ヌイグルマーが武田さんなのが若干不満に感じてしまうのですよね。別に武田さんは全く悪くないけど、ここまで闘った中川翔子が、あのコスチュームを着て、ぎこちなく、鈍足で、上がらない脚を必死に上げて、伸びない腕を必死に伸ばしながら、それでも必死に“ヒーローとして”誰かを守り、闘う姿こそ観たかったなぁ、と思う訳です。最後の、あんなサービス的な変身ではなく。そこまでやって、初めてしょこたんの「恩返し」は完遂されるのではないかな〜なんて。

でももしかしたらそれは、僕自身がヒーロー達に何の恩返しもできていないからこそ思うことなのかも知れない。単刀直入に言って、しょこたんがすげー羨ましかったです。

「仮面ライダー鎧武」

シリーズも序盤を終えようとしていますが、未だに乗れずにいます。

ダンスチームを描いているのに、全くカッコ良くないダンスシーン。ダンスをカッコよく撮れていない。背景に貼ってある、無神経なほどにダサいポスター、溜まり場の雑な設計、一通りの演技しか付けられていないモブから見える演出の不在感。テキトーすぎる美術のせいで、言葉で散々語られる彼らの拠り所としての「ダンス」に全く説得力が生まれていない。

その他にも、店の隠す気が無いセット感だとか、「鎧武」のプロダクション・デザインは正直、ちょっと酷すぎるように観ていて感じます。お陰で、上記のダンスのことも含め、「沢芽市」という架空の街に全くリアリティを感じません。っていうかまずオープニング映像がカッコ悪い

加えて、脚本の上でも、ありとあらゆるエピソードが既に過去の平成ライダーでやられたことばかりであり、「フルーツでライダー」以上のインパクトを未だに生み出せていないように思います。「モルモットにされる少年少女」にしたって、今週明かされた「闘っていた怪物の正体が実は人間」にしたって、「555」を代表として、僕みたいなキモチワルイ人間は散々観てきて、何ならちょっと嫌気が差してるぐらいの展開です。

……でも、脚本として酷いかと言うと、別にそうは思いません。何となく生きていた葛葉紘汰という人間が、「戦極ドライバー」という力を得たことによって、自分を取り巻く社会と関わっていく……そういう物語としては、時に丁寧すぎるほどの筋運びだとは思います。これがアニメで描かれていたとしたら、それは全く別の印象だったのではないかと思います。

ただ、実写はアニメのようにはいきません。肉体、衣装、群衆、ロケーション、背景、照明。それら全てを、それらをあらゆる現実の物理問題と闘いながら表現に転化し、「世界」を構築するのが実写作品です。全てを「絵」で表現する(少々乱暴な言い方ですが)アニメとはそこが違うわけですが、「鎧武」にはそこの意識がものすごく希薄に感じるわけです。この傾向は「平成ライダー」に関しては前々からある傾向ではあるわけですが(いつも戦闘する場所がさいたまスーパーアリーナ、とか)、明確に「敵」がおらず、登場人物たちがいる「世界」そのものが主役と言っても過言ではない脚本のお陰で、そこの杜撰さが浮き彫りになっているように感じます。

今のところ、「鎧武」の座組は何のケミストリーも生んでいない、単なる失敗しか露呈していません。僕自身は、平成ライダーシリーズが、新しい「血」を取り込んでいくことには大賛成です。特に最近の過去の遺産の食い潰しには憤りを感じているので。だからこそ、今シリーズのようなチャレンジには、絶対に失敗して欲しくないと思ってはいるのですが……。

ホント、お願いしますよ、という感じです。

「Z女戦争」

 妙に好きです、この曲。

 だって、ここまで正しい特撮ヒーローソングって最近なかなかないですよ。

 特にその歌詞世界。

 一番の構成なんか、戦闘を生活とする女の子の描写に始まり、まさに第一話のオープニングに相応しい。そして「戦闘形態」と「日常形態」の二足の草鞋を表現(※勝手に主人公を変身ヒーローに仮定しています)して、最後のサビではその日常を超えてやっぱり戦闘突入。理想的な第一話ですよ。

 しかし二番ではそうやって戦闘と日常を過ごしながらも、「日常」に於ける「どんな女の子でもやっていること」に対する憧れを表現しています。要するにこれは、「仮面ライダー」で本郷猛が水道の蛇口ぶっ壊しちゃうのと同じ葛藤なわけですよ。「どこかであの子を見ていたい / 放課後呼び出しでマストダイ / ちょっとドキドキしちゃう学園生活」という生活に憧れながらも決して踏み込めない領域であることを自覚しちゃうんだろうな、主人公は。

 そして主人公は決意するわけですよ。「自分があの人たちみたいになれないのなら、せめてあの人たちの生活を守ろう」と。燃える!

 しかし、もうシリーズも中盤になりますと(←仮定)「でっかい奴があらわれた!」な感じで敵も強大になってきて、主人公たちには手痛い敗戦や、それに伴う無理なパワーアップをやらされる羽目になる。そういう試練続きの中で「気づく弱い己が心」と負けそうになる。それでも主人公たちは「でも絶対譲れない意地ならパパ譲り」と戦い続けるわけです。

 それは何故か?

 本当は「ずっとみんなとはしゃいでたい / たくさん写真も撮りたい / きっとわくわくしちゃう林間学校」だけど、もう彼女たちは決めている。自分は「私たちは『みんな』じゃなく『みんな』を脅かす存在から『みんな』を守るんだ」と! だからこそ「ぶち壊すなら容赦しない だって青春してたい」んですよ。この「青春してたい」が「自分たち」に掛かってないところがミソですね。

 でも、最終話直前(←仮定)戦い続けうちに彼女たちはどんどんと疲弊していき、最後は命尽きる寸前までいってしまう。そんなとき、彼女らの耳に聞こえて来たのは、今まで自分たちが守っていた人たちからの歌声だったのだ! 「悩めるときも迷えるときも / 愛を持って導こう / 光たれ」と!!

 歌声によって立ち上がった彼女たち「正義の乙女」は、最後の力を振り絞って放った「最終秘奥儀」なんとか敵を倒す。でも、それで彼女らの戦いは終わった訳ではない。今回のみんなの助けによって、心の底では「本当は誰かに甘えたい / そっと優しくされたい / ちょっとくらくらしちゃう極楽天国」と思ったけれど、それを口に出すわけにはいかない。「でもね皆を守りたい / もっと強く強くなりたい」と決意を新たにして、再び戦いの場へと赴く正義の乙女たち! そこに「ベルが鳴る!また襲来だ!」to be continue。というわけですね。

 ……という具合に、曲を聴くたびにこういう物語が想像され、大変ウキウキします。最近の曲で、ここまで歌詞にはっきりとした起承転結のストーリーがあるものって珍しいような気もしますがどうでしょう。歌詞世界がすごくヒーロー成分を押さえまくってて魅力的な分、この曲のPVはヒーロー成分の押さえ方が中途半端で、若干そこが不満です。あのアーマーは絶対キャストオフするだろうよ! あの足には絶対スラスターついてるんだから滑空ぐらいするだろうよ!

 というわけで、東映さんは早急に「Z女戦争」の正式な特撮ドラマを作るべき!

 割と真面目に、「フォーゼ」が本来目指すべきだった「学園ヒーローもの」の感じって、こういうのだったんじゃないかなぁとちょっと思っております。


Z女戦争

Z女戦争

ジャケットはこれが歌詞世界の葛藤部分に一番合ってて好きです。

「エウレカセブンAO」

 もうさー、アニメでこういう「謎めいた言動をする謎の敵キャラ」って法律で禁止にしてくれないかなぁ……。もうキャラ設定欄に「謎」しか書いてないんじゃないかっていうこの手のキャラ、もう私はイヤです! しかもその手のキャラ、大体全部イタい台詞回しのカッコ付けだし! 明らかに方々にカブりまくってるんだからもっとバリエーション無いんですか! と思ってしまいますね。生意気にも。

 何が一番嫌って、「謎」を如何にも「謎ですよ」という顔で喋るのが一番嫌。なんかナメられている気がしてしまうのですよ。例えば、シャアは当初その目的は謎だったけど、「俺の目的は謎だぜぇ〜」みたいな顔してないでしょ?

 意図的に伏せていた設定を「謎」として、伏せたカードを表にして「あの謎が解明!」としてストーリーの起爆剤にする、という手法は、本当にそろそろ賞味期限来てると思うのですが、どうなのでしょうか。個人的には、ちゃんと展開を積み重ねて行くタイプの「物語」が観たいです。

「殺人狂時代」

 観たい観たいとは思いつつ、「いや、ちゃんとした知識を身につけてから……」「いや、ちゃんとした眼を養ってから……」と色々な言い訳をして延ばし延ばしにしていたのだけど、ようやく「このままだと観ないまま死ぬな」と気付いて、観て、超絶に傑作だったので後悔しました。

 力業で無茶苦茶な設定、外連味たっぷり……というか外連味しか味付けが無いキャラクター、荒唐無稽でクラクラする展開かと思えば最終的には「人間とは?」と深淵なる問いを肩がぶっ壊れるほどの全力投球でぶつけてくるそのパワー! 何より、ありとあらゆる場面がちょーカッコイイ!! 特に、仲代達矢最後の刺客を倒して、颯爽と去って行くカットなんかカッコ良過ぎて壁紙にしたい。(←安い)

 若かりし仲代達矢死神博士以前天本英世さんは、ちょっとあり得ないぐらいのカッコ良さなんだけども(仲代の、上映時間が進む毎に薄皮を一枚一枚脱いで行くかのような変貌よ!)、その脇に相棒役を配置してしっかりキャラ立ちさせる脚本のお手本のようなキャラ配置も光っております。

 う〜ん、もっと早く観ておけば良かったなー。多分三年ぐらい前に観てたら価値観が少し変わってたかも知れない。惜しいことをした。

 意外と、平成ライダーってこういう路線を目指すべきなんじゃないだろうか。深遠なるテーマを目指し(求め)つつ、ルックは荒唐無稽の外連味ぐっちょり。特撮ファンって岡本喜八ファン多いと思うし(そうでもない?)、喜八ライダー意外とイケるかもよ!>東映さん

殺人狂時代 [DVD]

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責任の所在

 「ブラマヨとゆかいな仲間たち アツアツっ!」に、ジャルジャルが出ており、その中で「めちゃイケ」でなかなか目立てない、というような話をしていました。

 観ていてものすごくモヤ〜ッとする話です。それ、ジャルジャル自身にどれだけの責任があるんだろう?

 これが例えば、「爆笑レッドカーペット」だとかそういう「参戦型番組」でのことならば、ジャルジャルの実力によるところが大きいと思いますが、一応「レギュラー」として数えられながら、そもそも現在の「めちゃイケ」に出演者としてジャルジャルがカウントされてる企画がいくつあるんだろうか。傍目から見ると、目立つ目立たない以前に、ジャルジャルには立つべきステージすら用意されていない印象なんですけど。

 しかも恐ろしいのは、ジャルジャルまだまともな方で、初期メンバーであるはずの有野なんか月一で見れれば良い方だし、敦士さんという俳優さんに至ってはいつ出ているのかすら分からない有様。酷くないですか?

 その全てをひっくるめて「実力」と括ってしまうのは簡単だけども、少なくとも彼らは「オーディション」という大々的に特番組んでまで「番組」が「選んでる」んですよ。「選んだ」ということは彼らの人生に確実に影響を与えてしまったわけで、そこには確実に「選んだ者の責任」が発生しているはずだと思うのは、甘過ぎるのでしょうか。

 「おねだりマスカット」は誠実にその責任を果たしていました。「めちゃイケ」オーディションから引き抜いた栗山さんメインの企画をやり、彼女に「ポジション」と「チャンス」を与えていました。そこまでお膳立てした上での彼女の現状を「実力」だ、というならばまだ納得がいきます(それでも扱いが偏りすぎだろうと思いますが)。

 でもジャルジャル(を含めたレギュラー陣)の場合は違うでしょう。大々的なイベントで選んでおいて、たまの賑やかし役ぐらいしか与えず、本人達のポテンシャル(存在するかどうかはまた別の話)を見極める努力さえ放棄して「実力の世界なんだよ」とふんぞり返ってみせる現在の「めちゃイケ」の姿勢は怠慢であり傲慢だと思います。

 別に重用しろとは思いませんが、選んだ者の責任としてしっかりと新メンバー達と向き合うべきではないかと。そうじゃなければ誰も浮かばれません。まぁ、そこに気付くような番組なら、そもそもあんなにメンバー増やしたりしないですけど。

 大体、福徳がバッシングに遭ったときに、明らかにもっとも責を負うべきはずの番組スタッフが誰一人福徳を表立って守らなかったこと自体、にわかには信じられませんけどね。だから岡村が代わりに守ろうとして下手な口をすべらせて墓穴掘るんです。墓穴を掘ったことすら気付いてない可能性あるのが恐ろしいですね。

 で、最近発表されたモーニング娘からの光井さんの脱退にも、ジャルジャルと同じような感覚を抱きます。

 僕は現在のモーニング娘に誰がいるのかほぼ把握してません。たまにテレビに出ているのを見かけはしますが、「田中さんは相変わらずかわいいなー」とかは思うものの、それぞれのメンバーの個体認識には至っていません。正直、光井さんのこともヤンタンに出始めるまではほぼ知らない人です。

 だからもしかしたら熱心に観ていたファンの人からしたら印象違うのかも知れないけれど、僕のような立場の人間からするとやっぱり、「活躍する場すら与えられなかった」という印象なのです。体調が脱退理由の大部分らしいから、仕方の無い部分はあるのでしょうか、それにしても彼女にしたってオーディションで選ばれた人間なわけでしょう? 選んでおいて、何もさせないというのは怠慢と傲慢がすぎるのではないですか。

 「選んでやっている」と、まるで神の如き気分でいる人々を、断固僕は非難します。

 力を与えられた者は、それを行使する責任があるのです。それは選ばれる側は勿論、選ぶ側だって例外ではないと思うのですが……やっぱ甘過ぎるかなぁ。

余談

 ただ、ジャルジャルに関しては別に言いたいこともあったり。

 「M-1 グランプリ 2010」での自分たちのネタが、結果的に世の漫才師達への批評性を帯びてしまったことに関して、「そんなつもりはなかった、本心は漫才師全員尊敬している」と言っていたけれど。

 それは通じないでしょう。

 例え本心がそうであっても、自分たちの創作したものによって、どこかの漫才師の心を、プライドを傷つけてしまった事実があるのならば、それは真っ正面から受け止めないといけないのではないのでしょうか。

 それを受け止めきれず「尊敬」という言葉で「逃げ」てしまう覚悟の希薄さが、ジャルジャルのある種の弱さなんじゃないかなぁ。

 「創作」という行為は、多かれ少なかれ誰かを傷付けます。時には自分を、時には大好きな誰かを。そして、人を傷付けるのは、それ相応の覚悟が要るのだと思います。

 ……偉そうに何を言ってるんでしょうか。ごめんなさいっ!(←逃げ)