「シン・ウルトラマン」

映画としては不出来だと思うし、明確に「これはアウト」な描写もある。やりたいことが全然うまくいってないところもたくさんあるし、「期待はずれ」とばっさり言っちゃえば簡単なんだけども。
 
なんだけども……あまりそういうところをつついて批判する気になれないあまりに直球で、あまりに愚直なその姿勢に、なんだか変に感銘を受けてしまったから。
「オレたちはこういうものが好きだったんだ」「こういうものに憧れたんだ」とキラキラした顔で、なんの含みも無く言ってきて、更には「だから、キミにも出来ることなら分かってもらいたい。そして伝えてもらいたい」という継承の意思が画面に溢れ出ている。還暦過ぎた、もしくは近いおじさんたちがここまで純粋にものづくりをしたという事実に打ちのめされる。
 
翻って自分はどうだ? 気付けば「好き」という感情に色々と理由付けをしてこなかったか? 作劇がどうだとか、スタッフがどうだとか、レビューがどうだとか、世間がどうだとか、「〇〇さんが評価している」とか、自分の感情に何か後ろ盾を求めてこなかったか? むしろ、何か後ろ盾がなければ「好き」は表明しちゃいけないものだといつの間にか思い込んでなかったか?
 
でも、誰とも遊ぶ友だちもいない夏休みの昼間、「ウルトラマン」の再放送をかじりついて観ていた小学生の頃。あのとき、あの瞬間に抱いていた気持ちは、そんな尺度で測れるものだったのか? はじめてBタイプのマスクの美しさに震えたとき。メフィラス星人の策略に密かに心躍ったとき。テレスドンを操る地底人に恐怖したとき。あのときの、それは確かに、僕だけのものだったはずなのに。
 
もはや僕自身はあのときの気持ちを純粋な形で思い出すことも抱くこともできないけど、この人たちはそれをずっと、何十年も、この世界で抱き続けてきたこと。そして、それをノスタルジーだけにせず、なんとかして次の世代へ渡そうとしている。
 
それは言ってしまえば「愛」と呼ぶものなのかも知れないけど、あらゆる情報が錯綜し、あらゆる行動が常に「他者」を意識してしまう現代に於いて、この純粋さってそんな単語ひとつでは表現できない、なんか尊いものなのではないかと(錯覚だとしても)思う。愚直さを無意味な客観で「恥」として、「とにかく破壊」な言い訳じみた旧作リメイクが多い中だからこそ、なんだか妙に感動した。と同時に、自分の中のウルトラマンになんて仕打ちをしてきたんだろう僕は……というよく分からない後悔すら呼び覚まされた。もう戻れないのかも知れないけど、それでも心意気だけは好きなものに素直でいようと改めて思った次第です。これで映画とても傑作だったら言うことなかったんだけど……ま、それはこの意思を受け継いでいく人たちに期待するということで。