「芸人キャノンボール」のおもしろさって。

元旦に放送された「芸人キャノンボール」が大変おもしろくて、久々に色んな人の感想を見て回ったりしたのですが、絶賛する人もいれば、当然ながら「面白くない」「つまらない」「不快だ」みたいな感想に当たったりします。

別に感想は個人のものだし、基本的にはそこに正しい間違っているだのは無いと思っております。

……なので、以下に書くことも当然ながら個人の考えであります。という前置きをして言いたいのは、「芸人キャノンボール」の評価すべきポイントは、「おもしろさ」なのは勿論のこと、その「おもしろさ」が「時間の蓄積」と「感情の演出」で彩られていたことです。大袈裟に言えばそれは映画的なおもしろさであり、簡単に言えば「3時間見続けていないと機能しないおもしろさ」という、おおよそ最近のテレビバラエティの主流とは思えない構成を用いた点だと思うわけです。

例えば、最初のお題である「にらめっこの強い人」というお題での、通りすがりの素人を片っ端から「面白いかどうか」で判断するシークエンスを「不快だ」というのは理解できます。正直、僕も多少そう思った部分はあったから。だけど、3時間見終えるとこのシークエンスは全体の構成演出的には絶対に必要なシークエンスであることがわかります、

何故なら、この最初のシークエンスは、各チームの「ゲームに臨む姿勢」の説明であり、各チームの「性格」を如実に説明するのに必要だったのです。ロンブーチームは真剣に自分たちの人脈で、おぎやはぎチームは漁夫の利狙いの上から目線、というような。劇映画でいうところの世界観説明に当たる部分。

それがどう機能していくか。1日での集中ロケのため、メンバーが中抜けしたりしていく。メンバーが中抜けしたチームは特性が変化する。最初のシークエンスでの戦術が通用しなくなったりする。じゃあ次をどうするか? 愚直に今までの戦術を続ける者、策を弄する者……時間やシークエンスが進むごとに登場人物が変化していく。それはつまりは時間を追って展開しているということです。その展開をするためには、物語の基本設定を理解する必要がある。そのために、最初のシークエンスの(敢えて言えば)「不快さ」は必要なものであると言えます。

この「展開」は、最初のシークエンスから続けて観るからこその「展開」、もっと言えば「感情と思考のうねり」であり、それぞれのシークエンスをザッピングなどで単体で見てもそのおもしろさの3分の1も味わえないという作りなのです。過去、現在、未来の時間の連なりの中で、そこにいる人間がどう変化していくか? それはまさしく「物語」なわけです。

それが如実に現れるのは、「とにかく辛いものを食べられる人」のシークエンス。感想を見回ったときに「素人がもの食ってるだけでつまらなかった」というのを見て「そーじゃないんだよ!」と思ったりしたのですが(個人感想につき、多少の傲慢はご容赦を)、このシークエンスの醍醐味というのは、ここまでの時間の積み重ねの中で各チームの特性が反転し始める点。見事なまでに起承転結の「転」になっているのですね。

通行人をある種(誤解を恐れずに言えば)下に見ながら選んできたチームが、その素人の意外な活躍に感動したり、卑怯を重ねてきたチームが最終的に圧力を使い始めてヒールとしての到達点を迎えたり。もちろん、勝負そのものも(僕は)おもしろいのだけど、そこに更に各チームが自然と背負った物語、そして物語内でのキャラクターがスパークしていく。

そこに「最後」という言葉が彼らに文字通り最後の鞭として投入される最後のお題。これまでの展開によって背負った各人の「物語」は、決戦の地に向かう車内トークという形で表現される。「勝ちたい」という気持ちが強くなる人。今まで通りの姿勢を貫く人。「終わり」を宣告されたことによって気を抜く人。

それぞれの、自分が背負わされた「物語」に向かう姿勢が、最後のお題「ガチ相撲」にそのまま結実していく。最後に勝ったのは、最後まで諦めなかった人たちだった。こうして書くとなんだか美しい。誰なんだ雷電とか言ってたけど。このシークエンス単体であれば、ただ単に相撲の結果でしかないけど、これまでの展開の積み重ね、そして直前のトークを把握していると、不思議なことに同じ映像が物語の結末へと姿を変えるのです。

繰り返しますが、これらはそれぞれを単独で見ても十全には楽しめないんです。3時間、全てのチームの動向を見守っていないと感じられない種類のおもしろさなのです。見ている方に「考えること」「想像すること」を要求しているんです。今、この人はどう考えているだろう? 何を思っているんだろう? ならば次はどう出るのだろう? 考え、想像することで世界が始めて開ける仕様。不快を感じたからこそ訪れる快感。快感を感じたからこそ訪れる不快。高揚のあとの落胆。落胆のあとの高揚。変化と静止。「盛り上がりがなかった」と感じるならば、映画を途中入場じゃ楽しめないのと一緒で、大事な部分を見逃しているのです。

「テレビなんだから金太郎飴のようにどこを見ても面白く、浴びてるだけで楽しめるべき」という意見はあろうかとは思いますが、別に僕も全てのテレビがこうであれ、なんてことは思いません。でも、こういうのがあってもいいと思うし、こういうものが楽しめる素地はあったっていいじゃない、と思うわけです。だって考え、想像してこそ人間であると思うし、それに挑戦してこその「表現」だと思うから。

僕個人の感想としては、久々にテレビの前から離れられない感覚を味わったテレビ作品でした。来年もあればいいなぁ。

参考:CM前後の煽り、振り返り、過剰なテロップもない 『芸人キャノンボール』に見る視聴者第一主義(てれびのスキマ) - 個人 - Yahoo!ニュース