爆笑問題の関係。


 id:sahyaさんからコメントを頂いたのですが、その返事が思いの外長くなりそうな予感がするので(推敲しないよ!)、ここに書きます。内Pも休みだし、お台場明石城終わっちゃったし、丁度書くことも無いし!(ついでなのか)以下、全部僕個人の勝手な思いこみなんで、その辺差し引いてお読み下さい。時間が無いときは、最後の段落だけ読めば充分ですよこんなのは。

 その社長の出た番組は、存在を知りつつも見逃したので、sahyaさんの記事以上のことは分かりませんが、それを踏まえても太田は子供だと思ってます。小学生みたいな下ネタを 40 近くにもなって連発してるとか、そういうのもあるし、「憧れ」が即「執着」に繋がる点もそうですが、一番子供だと思ってるのは、その「想像力の無さ」とそれに伴う「器の小ささ」だと思ってます。

 田中って、本来はキレ易くて流されやすく、且つ目標が無いくせに勘違いしやすいという欠陥人間なのです。引っ掻く以外にも太田の胸ぐら掴んで壁に叩き付けて仕事ほっぽり出したとか、そんなエピソード沢山あります。でも、そんな田中にも、「役割」を与えるとちゃんと動けるという長所があって、そこに目を付けた太田がそれこそ何年も何年も「自分の」ツッコミ(「日本史原論」とかで自分で書く田中のツッコミ)を田中に仕込んだ訳です。

 故に、太田にはこっちには想像できないぐらい「田中に役割を与えた」という自負が強烈にあって、だからこそ太田は「田中は自分の作品」ぐらいの意識はあるでしょう。でも、田中は欠陥でも人間なわけで、作者の思い通りにいつも動かない訳ですよ。そういう意味で、田中が太田が与えた「役割」の中で自分の想定の範疇を超えることをとても嫌がるのです。田中はあくまで「自分の与えた役割を演じる人」であって欲しいわけで、そこを超えるのを絶対に許せないわけです。

 「そこを共有しよう」とか、そういう考えがない。全ては太田から田中、という「順序」であって欲しいわけで、「共有」なんざ有り得ないわけです。また同時に、他人の思考を「他人の思考」としてではなく、「自分とは逆ベクトルの思考」としか受け入れられないところもある。

 分かり易いエピソードでは、佐野元春とサザンで、佐野ファンだったけど田中が好きになったからファン辞めたとか訳分かんないこと言い出すし、最近だったら「お前がメロン好きとか言ってるのは、値段に惑わされてる」とかまた訳分かんないこと言い出したりします。それらを冗談で言うならまだ良いのに、ラジオとかで何十分もうだうだ言い続けて、大抵はみんなから呆れられる訳です。

 太田には、「他人は自分の想像通りには行かない」という想像力が普通より大分欠落してるように見受けられます。要は、「信頼の仕方がとてつもなく下手」とも言える。そういうところも、爆笑問題が真の意味での「仲間」を作って来られなかった遠因じゃないかと思ってます。

 この太田の性質をよく表すエピソードがありまして、前に「ほぼ日刊イトイ新聞」で太田と糸井が対談したときに、太田がこう言ったそうです。

「何故、美しい顔を持った人達は、ついてくる人達を使って世界征服とか考えないのか」

 これに対して、糸井は一言。

「太田くん、そう思うのは友達が居なかったからだよ

 思うに、太田の想像する「他人」ってもの凄く書き割りなんだと思います。多分、学生時代とかに「相談する」とか「話し合う」と言う経験がもの凄く少ないからそうなったんだと思いますけど。その上、なまじ太田は頭は良いから、色んな物事に自分だけで結論出せてしまうんですよね。上に書いたように一番近くにいる筈の田中には自分の与えた役割内での想定範囲内を超えることが許せないし、とそういう意味での器の小ささ全部ひっくるめて、精神的に子供というか、精神的に大人になるべき色んな通過儀礼を忘れてきたみたいなとこがあると思います。

 だからこそ、太田がその人間性を全部預けられる奥さんとか、故意か偶然か、太田の想定範疇外に出てしまう田中という人間は色んな意味で希有、この人達は本当に良いバランスだな、と思ってます。

 ……相変わらずこういう文章書くと途中から滅茶苦茶になってますが、ニュアンスで受け取って下さい、ニュアンスで(結局ニュアンスか)。