「ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦」

 「ゴーカイジャー」に個人的に一番好感を持っているのは、ライダーの記念映画と決定的に違うのは、「ヒーロー」を「スーツ」という「ガワ」でしか認識していないライダーに対して、「ゴーカイジャー」はあくまで「ヒーロー」は変身しているその人であると認識してくれているところです。だからレンジャーキーのみで不正召還(?)された連中は「ディケイド」のディエンドのと違って一切声を発さないし、「大いなる力」も必ず変身者との接触が前提に作劇されています。

 この映画もその理念は一貫していて、故に「レッツゴー仮面ライダー」よりもよっぽど過去シリーズへのリスペクトに溢れたアニバーサリー作品となっています。けれど、そうやって「やろうとしていること」がとても明確だからこそ、製作陣に降り掛かった物理的限界如実に分かるという悲しい結果に。

 例えば、冒頭の「レジェンド大戦」での、ゲスト陣の大人の事情プンプンの人選。助けに来る連中が揃って声優が声を当てている着ぐるみキャラクター。ようやく顔出しが出てきても「シンケンジャー」の設定からして、グリーンとゴールドしか居ないなんてことは考えにくいし、「ゴーオンジャー」のイエローもそう。「ボウケンジャー」のチーフが居るなら、隣には絶対にピンクが居るんじゃないか? 

 それに、ラストの展開でライブラリ映像使いまくりという力技をしておきながら、敵キャラがただの在庫一掃セールにしか見えないとか。大体、「レジェンド大戦」なのに相変わらず戦場が採掘場と森って、とか。色々余計なことが気になって来るわけですよ。

 ライダー(っていうか「ディケイド」か)だったら「このぐらい出しとけばよかんべ」という“言い訳”臭がプンプンするわけですが、この作品は「頑張ってはみたけれど、ここが限界なんです……」という悲壮感を感じるのですよ。全戦隊の決めポーズシーンの、あまりの画面の安さには、別の意味で泣けます。

 「オレが観たいもの」と「製作陣の理想」って、そんなにズレてないと思うんですよね。恐らく、本当の意味での「199ヒーロー大決戦」を志向したんだろうと思うんです。でも、実際は予算的に、技術的に、スケジュール的に、その他色々な事情で阻まれ、限られた選択肢での製作にならざるを得ず、その結果が上記のような結果であったことは容易に想像がつきます。

 ただ、その「限られた選択肢」から全て最良の選択をしているかと言えば、そうとも言えない気がするのが微妙なところ。

 例えば、僕は世代的に「ダイレンジャー」直撃だから、リュウレンジャーこと亮が大画面に登場したときは、冗談抜きで血圧が上がったけれど、その亮は、同時に登場する他の二人と共に、ほぼ本筋に関わらないんですよ。いや、まぁ大きな意味では関わっているけれど、テレビシリーズの方でしっかりと関わっている状況を見ると、ものすごーーーーーーく消化不良なんですよ。「レジェンド大戦」に顔出しした連中も同様ですけど。

 「先輩戦隊は戦闘はしない」という不文律があるのかも知れないが、それにしても本当にゴセイジャー以外の面々は「出て来るだけ」で、そりゃあアカレンジャーみたいに「出ることそのものが意義」な存在はそれでいいけど、他はそれじゃあ物足りないよ、って話で。全員を均等に本筋に関わらせるなんてことは絶対に不可能だけれど、それにしても出し方が最良であったとは思えない。

 多分、欲張り過ぎなのだと思うのです。選択肢は限られているのに、「199ヒーロー大決戦」という看板に足下をすくわれてしまったというか。ならば、割り切って「ゴーカイジャーゴセイジャーとゴレンジャーの話」としてしまえば、アカレンジャーアオレンジャー出せるし、最後のゴレンゴーカイオーも説得力増すし、個々の関わりも増して、結果「スーパー戦隊とは」という大きなテーマにも踏み込める良作になったのでは……と思わずにはいられません。

 でも、それじゃあやっぱり「お祭り」にはならないんだよな……。観ている最中は確かにそれなりに楽しんだけれど、何だか寂しい気持ちにもなってしまいます。

 最後の巨大戦のフリが、「あのとき子供だった大人達が、大切に持っていたおもちゃ達がスーパー戦隊の想いを受けて巨大化」という展開は、あそこにいた大連王は、もしかしたらウチにかつてあった大連王かも……という感慨が湧いて燃えました。