サンボマスター「サンボマスターは君に語りかける」

 あぁ、ダメだ。何となく予想はしていたけど、サンボマスターをこうやって座して聴くには、まだ早かったような気がする。それは、極個人的な理由ではあるのですけど、その個人的な理由を、サンボマスターの「音」は喚起させすぎるから。

 サンボマスターは洗練されてない。それは良い意味でも悪い意味でもなく、事実としてそう。例えば、演奏技術の高さの割にそれを活用するための“手法”に於いては非常に単純であるし、同じ様なメロディを別の魅せ方をする等のテクニックもない。彼らの楽曲は、存在が存在そのもののまんまズデンッ!と広〜い地平のど真ん中に置かれてるだけの感じがします。

 だから、彼らの「音」にはオブラートがありません。全てが剥き出し。よく言えば一本気。悪く言えば一辺倒。彼らは「あざとさ」という言葉とは無縁なところで、本当に気持ち良いぐらいに叫んでくれるし、それは気持ち良いぐらいに響き渡ります。今、「美しき人間の日々」とか「自由になったのだ!」とこれだけ頭悪いぐらい叫ばれて、これほどまで胡散臭さを感じないのは殆ど奇跡みたいな話です。

 僕はインタビューとか殆ど読まないし、サンボマスターの三人が実際どういう人たちなのか殆ど知らないけれど、多分彼らは音楽が狂おしい程に大好きなんでしょう。だからこそ、これほどまで芯から叫べるのだろうし、相応に熱い。

 でも、今の僕にはそれが辛いのです。この熱い音の中に今の僕が見えるのは在りし日に、「バンド」というものに強く憧れつつも、遂に叶うことのなかった僕個人の「夢」。それは僕個人の後悔。僕は卑屈な人間なので、今もその後悔を抱えています。何故、あのときほんの少しの勇気を出して誰かを誘えなかったのか。どうしてもう少しだけの努力が出来なかったのか。そういう後悔や何やらを超えたところにある筈だったもの、僕個人が欲しかったものを、サンボマスターの音は見せてくれるのです。自分も、彼らのように思うがままに音を発することが出来たかも知れない、と。

 サンボマスターが放つパワー、熱量は僕が憧れたものそのものです。それはとてもストレートなことだったのです。しかし、その憧れが具現化されたときに、僕が想起するのは、昔同級生達が友人達と組んだバンドで笑顔で楽しそうに演奏しているステージを、遠くで観ていたときの“絶望的な距離”だけでした。

 サンボマスターは素晴らしいです。けれど、この激しくて熱くて優しくて楽しくねっとりさっぱりした音、何よりその思うがままにストレートな姿勢を純粋に「音」として聴くことが今の僕には出来ないのです。卑屈な僕は、どうしてもこの音に「憧れ」を禁じ得ないから。それもとても身近で、小さくて、強くて、この手に掴めたかも知れない憧れ。それはつまり、激しい後悔なのです。

 この僕の極個人的な“後悔”が、極個人的な“思い出”に変質してくれるその日まで、僕はサンボマスターを座しては聴けない。今の僕に、サンボマスターはプレッシャーでしかないから。

 サンボマスターと全然関係ない話になってごめんなさい。