「超電王トリロジー EPISODE RED ゼロのスタートウィンクル」

 色々と複雑な思いを抱えつつ観に行ったら、完全にトリロジーの出鼻を挫く出来で、ちょっと泣きたくなった。

 まず、ファーストシーンから最悪。侑斗と桜井と姉ちゃんが立っていて、消えゆく桜井を見詰める姉ちゃんを侑斗が見ている……というだけのイメージシーンなんですが、何故かこれだけのシーンを何カットも何カットも何カットもやるわけですよ。時にはアップ、時にはクレーンで……という具合に、延々何分も。言葉で説明したらト書き一行で終わるシーンを。

 この凄まじい間延び演出は、侑斗×姉ちゃんのシーン全編で使用されており、多分製作側としては「こうやって延々と表情を撮っておけば、何となく切ないでしょ?」ってことなんだと思うけど、能面のような表情延々映されて何を感じろと? それは、今まで「電王」というシリーズを観てきて、「侑斗」と「野上愛理」というキャラクターを十二分に理解している観客の多大なる脳内補完があってギリギリ成立するかしないかの手法ですよ。

 この「超電王シリーズ」という企画そのものが壮大なる観客への甘えでしかないのに、演出までそんなに甘えられても困るんですけど。

 んで、一事が万事、この演出通り、侑斗と姉ちゃんの話は「電王」のときからやってきた話をうっすーーーーーく伸ばしてあるだけで、この映画で何か発展した部分は皆無。何てったって、侑斗は愛理のために敵を倒す、という当たり前のシークエンスすらやらない。ただただ、じっと見詰め合うだけ

 アホか!!

 「侑斗」と「桜井」は同一人物だけど、姉ちゃんにとっては別人で、姉ちゃんの中には未だに桜井が居て……という話のスタートなのは良いとして、オチが「姉ちゃんが、『やっぱりこの人は桜井侑斗なんだ』と感じて涙を流す」ってのはどうなの? 星座を絡めて何か切なげにしてるけど、道路の真ん中でいきなりバイク停めるってどういうことだよ! とかそういうツッコミを避けたとしても、それってそこからが重要な話なんじゃないの?

 単純に言えば、この変化というのは「起承転結」の内、「転」に限りなく近い「承」でしかないわけで、姉ちゃんがそう感じたときから、この二人がどうなるかが重要なわけじゃないですか。いや、良太郎やデネブに「でも、いつかきっと」とか言わせてるから、「その辺は想像してね」ってことなのかも知らんが、だったら映画として別の「転」「結」を見せろよ。

 最初の「超電王」では、ギリギリ狂言回しとして機能していた良太郎一行は、今回本当に何の意味も無い。侑斗回りの事件の解決の手助けをするわけでもないし、敵イマジンはデンライナーを暴走させた方法も分からないし、宿主がバカ過ぎて「このままでは時間が危ない!」という基本的サスペンスすら機能していないので、電王がいくらイマジンを倒しても何のカタルシスも無い。っていうか、そこはゼロノスが倒せよ

 結局、モモタロス達がいつものようにドンチャン騒ぎをしている様子を見せて、「これで皆さん満足でしょ?」という具合。あのさ、いい加減にして下さい

 既に主役である良太郎ですらオリジナルキャストですら無い、というかなり歪な状況でもシリーズを継続することに関してはかなり複雑な思いはある。けど、「電王」という作品への愛着と、「こうやって興行成績を上げて、儲けてくれれば、後の東映特撮作品に還元されていくんだ……」という思いで何とか足を運んでお金を落としているのに、こんな杜撰な作品お茶を濁すのは辞めて欲しい。こんな歪な成り立ちだからこそ、作品の内容ぐらいしっかり作って欲しいです。

 「ディケイド」もそうだけど、「お祭りです!」って言えば何でも許されると思ったら大間違いですよ、ホント。